方便の技術と視野とかいろいろ
方便
方便について、どういうイメージがありますか?「嘘も方便」は誰でも知ってると思いますが、あれ元々は仏教の用語で
みたいな説明があります。「真実の教法に誘い入れる」とか聞くと宗教臭が強いのでそこは無視してもらって、「衆生を教え導く巧みな手段」あたりについて考えると、これ割と我々も普段から使っているやつだなって感じがしてきます
方便の意訳、身近なやつ編
衆生って書くといろいろ誤解がありそうですけど、一旦その辺は忘れてもらって…
みなさん、円の面積ってどう計算しますか?
私の世代は「半径 x 半径 x 3.14」って習いました。でも本当は円周率は3.141952…ですよね。でもそんな本当のことだけ教わっても、難しすぎて子供は円の面積計算できるようにならずに終わっちゃいますよね?だから方便で、「円周率は3.14」ってやるわけです
方便の意訳、仕事の話編
会社組織で大きな仕事を成し遂げるためには、やっぱり多くの人で協力し合って仕事をする必要があります。
その為にはやっぱり、そこにいる人たちのベクトルを合わせることが必要ですよね。
高度経済成長の時期とかだと、乱暴な言い方ですが、日本を経済大国にするぞ!とか、良いもの作れば売れるぞ!とか、ベクトルを合わせるのに使える社会的な雰囲気とか方向性があったように思います。
でも近頃の日本は多様化も進んで、ビジネスの複雑性も増して、なかなかベクトルを合わせることが難しくなってきてる状況があるのかなーと思います。
これはもしかしたら日本に限った話ではないかもしれないですね。ミッション、ビジョン、パーパスなどのキーワードがハーバードビジネスレビューなんかで取り上げられたりするのは、その流れなのかもしれません。
で、方便の話なんですが、ミッションがありビジョンがあっても、人は考え方・価値観、いろいろ違うので、1つのミッションがあってもそれにモチベートされる人もいればそうでない人もいると思います。そんな時に、その人の価値観に合わせた形で、ミッションと自分を結びつけるようなコミュニケーションをとっていく必要があったりするんじゃないか?っていう、それが仕事における方便じゃないかなーと思うわけです。
例えば、
- お金稼ぎたい!が強い人には、ミッションに向けて仕事をしてもらえれば評価されるし、給与にも反映されるよというような話。
- 社会の為に働いている実感を求める人には、ミッションと社会の紐付けをしてあげられるような話
- 一緒に働く人を大事にしたい人には、その仕事がどれくらい周りの人のためになるのかというような話
- 自分の知識、能力を高めたいという人には、その方向で働いてくれる人に、より重要な業務が任されていくんだよ、というような話
などなど、その人その人に合わせて、あえて違った切り口で話す「方便」の技術って必要だよねと思うわけです。
人数が増えると方便の難易度が上がる
とくにマネージャーの仕事は、一緒に仕事をする人達のパフォーマンスを最大化していくことにあると思うんですが、方便のバリエーションを1つしかもってなかったりすると、そこに納得してくれる人ばかりの時は問題ないんですが、そうでなくなってくると途端にうまくいかなくなります。
「うちの会社(部署)の人はこういう考え方だよね」というステレオタイプ前提でマネージメントしようとすると、すぐに壁にぶつかってしまう。
その事実を、「マネージメントスタイルに問題がある」と考えるか、「あの人は会社の価値観をまだ理解できていない」と考えるかという問題があるなと。
採用時に、価値観にフィットしそうな人を選ぶからとは言っても、やはり人のパーソナリティというのは非常に多面的だし、限られた時間の中で価値観を見極め切るというのも難しい。それに限定的な価値観の人だけで会社を運営しようとするのもなかなか厳しい制限だと思います。
そうなるとやはりマネージメントにおける方便の技量というのは非常に大事になってくるのではないでしょうか?
経営視点、現場視点、専門職視点
ある1つのビジネス上のISSUEをとっても、
経営視点で見てどうするべきか
現場視点でどんな問題があるか
専門的視点で見るとどんな課題なのか
それぞれ異なってくると思います。それぞれの視野が違うんですよね、解釈がわかれてくるのはむしろ必然なのではないでしょうか?
そんな時に、「経営視点をもう少し持ってほしい」「現場のことももっと分かってくれ」「専門知識が足りなすぎる」と言い合っていても始まりません。
「状況を変えたいなら自分から変われ」みたいな話がありますが、やはりそれができる人がまずやって見せるしかない気がしますし、それはやはりマネージャーにかせられた責任なのかなーと思います。
どう語れば、経営視点を持てない人に伝わるかたちで経営視点から見たその問題の捉え方を理解してもらえるか
そういう方便の技術とでも言うべきものを磨いていく必要がある気がしていて、
これはいつまで経っても勉強することはなくならないな…と遠い目をしてしまうなーと思うわけです。