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文学における精神分析批評について、松本清張の『或る「小倉日記」伝』を題材に論じてみる

当記事について

文学における精神分析批評について調べようと思った時に、検索しても良い資料が出てこなかったので、自分で調べた内容を晒しておく。

精神分析批評についての説明

 精神分析批評とは、文学批評に精神分析学の手法を取り入れたものである。精神分析学はフロイトによって創始されたもので、他にもラカンユングなどが有名だ。文学における精神分析批評においても、ラカン精神分析理論を利用したもの、フロイト精神分析理論を利用したものなどいくつか存在するが、フロイトの理論を利用したものが分かりやすい。

 フロイト精神分析エス、自我、超自我防衛機制エディプス・コンプレックスなどが有名だが、精神分析批評においてもこのような理論を用いて登場人物の心理について分析し批評をする。精神分析批評という手段を通して、文中に直接的に描かれない作者の思惑を読み取ることは文学の楽しみ方の一つと言ってもいい。このような分析、批評が可能になるのは作者がリアリティ溢れる心理描写を行なっているからであり、精神分析批評を通じてその作品の文学性の高さを確認することもできる。

『或る「小倉日記」伝』について

 分析例として、松本清張の『或る「小倉日記」伝』を題材にしてみる。『或る「小倉日記」伝』の物語の軸は主人公田上耕作の人生の顛末と、彼が取り組んだ、「小倉日記」時代の森鴎外の事跡調査の推移についてとの2つの軸が存在するが、今回分析するのは田上耕作の人生の顛末についてである。障害者として生まれながら頭脳は明晰であった耕作の精神分析を通してこの作品に込められたテーマを読み解いてみたい。

『或る「小倉日記」伝』の精神分析批評

 この物語は母親の愛情を独占した一人の男子の物語だと言える。フロイトエディプス・コンプレックスという概念においては、男児は母親を自分のものにしたいと思うが父親という存在に阻まれることで、母親を自分のものにするという欲望を諦める。こうして欲望を諦めることで子供は正常な大人へと成長していき、社会に出ていけるようになる。だが『或る「小倉日記」伝』の耕作は常に母親の愛情を独占しているのである。父は早くに亡くなり、非常な美貌の母は次々舞い込む再縁の話をことごとく断り、耕作を支えた。

 しかしこの物語は明確に悲劇である。耕作はその一生をかけ小倉時代の森鴎外の事跡調査に取り組んだが、結局耕作の死後に鴎外の「小倉日記」は発見される。言うなれば一生の仕事が無駄骨になってしまった。晩年は経済的にも困窮した。耕作の一生は、母親の愛を独占したにも関わらず悲劇的に描かれている。

 耕作が母親の愛情を独占できたのは、彼の障害によるものだった。耕作が重い障害を抱え、たとえ再婚したとて「婚家先でどんな扱いを受けるか、知れていた」からこそ、母親は再縁の話を全て断ったのである。そして耕作はその障害ゆえに社会に完全には受け入れられずにその一生を終える。物語の途中で、耕作の恋人候補として登場するてる子という女性も、母親に耕作との縁談を持ち出された時「いやね小母さん、本気でそんなことを考えていたの」と断っている。

 母の愛を手に入れてもなお、耕作は幸せにはなれなかった。エディプス・コンプレックスで言えば、最も欲しかったものであるはずの母親の愛を手に入れてもなお、である。耕作が死の直前に聞いた幻聴も、かつて幼い日に「最初にほのかに愛した子」を思い出させる鈴の音だった。

 この物語からは、個人が社会に受け入れられることの重要性、それを本能的に求める人間の姿が読み取れると考える。エディプス・コンプレックスという社会に出る前の男児の欲望としては、母親を手に入れることがあるが、それを達成してもなお不幸に描かれる耕作の姿、そして彼の無意識下に、かつて自分を受け入れてくれていた「でんびんや」一家そして「最初にほのかに愛した子」を求める気持ちがあったことが、死の直前に耕作が鈴の音の幻聴を聞くという表現から感じとられるのだ。