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社会学に触れて 脱常識の社会学(ランドル・コリンズ)を読んだ

ランドル・コリンズの「脱常識の社会学」を読んだ

ランドル・コリンズは

ランドル・コリンズ - Wikipedia

こういう人らしい。ちょっと読書メモ的に書き記していく感じにするので、支離滅裂なことがあるかもしれません。

合理性が非合理性を産む

官僚制度は合理性を追求して作られているが、部分最適的な合理性が全体としては非合理性を産むという結果が引き起こされているという。失業を減らすための政策がインフレを引き起こしたりといった事例があるのに加え、カール・マルクスによればこれは経済の世界でも起きている事実だそうだ。「本主義的利潤追求が失業と倒産の危機を引き起こし、それらの危機が最後には資本家階級までも破滅させてしまうと考えた。」とのこと。

合理性を追求すると社会契約は成り立たないとデュルケムは言っている。約束をしても、欺くことが短期的には合理性が高いから。また例えば寄付によって成り立つ乗合バスがあった場合、「自分以外の全員が寄付する」のが最も合理性が高くなるが、みんながそれをやったら成り立たない。合理性を超えた感覚(トランスナショナル感覚)、情動や道徳感情がそれを可能にするらしい。 そうするとなぜ国家が成り立つのかとか色々疑問が出てくる。社会学の本はなかなか結論が書いてないのだろうか。結論ぽいものにたどり着かない。興味深い一文としてはこんなのがあった。「どの分派も、それ自身の成員間の連帯を欠いては、他を支配することはできない」。合理性だけでは連帯は生まれず、非合理的感情(自身の利益より集団の利益を優先しようという感情)が重要という。

「最高の成功を収める収奪者は、他人に、自分が心の底から一番彼らのことを思っているのだと感じさせる人である。」という一文が相当に恐ろしい。

ドイツの社会学者ラルフ・ダーレンドルフは「どのようなものであれ、命令する人と命令される人がいるような権力状況は闘争の可能性を意味する。」と言っている。この2つの文を合わせて読むとまた恐ろしい。「闘争と連帯は同じコインの両面である」というのもある。外敵がいると最も連帯が強くなるし、それは合理的に発生するというよりは感情によって発生する。集団の中には常に様々な利害関係が生じるが、どの利害関係が優先されるかは合理的には決定されずに、集団の中で人々を互いに結びつける”道徳感情”によって決まり、この”道徳感情”がどのようなものになるかは社会的儀礼によって決まると言われる。

道徳感情

ここに企業が新卒採用を重視する背景が透けて見える気がする。新卒で入社する社員は”まだ社会的儀礼を済ませていない”または済ませてきた社会的儀礼が少ない。つまり”道徳感情”をコントロールしやすい。

道徳感情というのは、ある集団に所属したいという気持ちのあらわれと表現できそうだ。道徳、常識というのはある集団の成員である条件であり、それに違反するとその集団から追放されるものだ。宗教が最もわかりやすく、中でもイスラム教はわかりやすいかもしれない。イスラム教徒は豚を食べない。豚を食べればイスラム教徒ではいられなくなる(追放される(実際にそうなるのか調べた訳ではないが))。

おそらくではあるが、この「集団」が多層的に複雑に絡み合うから厄介なのだろう。例えば私は日本人で、男性で、ある会社の職員で、会社内のあるグループに所属し、会社内のある”インフォーマルな”集団の一員で、XXXという考え方をし、YYYを好む。ここで会社がXXXという考え方ではなくZZZという考え方で意思決定をする傾向があった場合、私はどちらの集団の道徳感情に従うかというパラドックスに陥ることになる。

社会的儀礼

「集団の中の個人がみな、同じ感情を抱くようになり、しかもその感情を他の人たちと共有していることを意識する」ようにできると、集団はより力を持つようになり、それを作るために社会的儀礼があるらしい。これを実現するためには”行為は儀礼化されなければならない”から、社会的儀礼は必要である。この儀礼化された行為を通じて、自らが集団の一員であるということを集団の全員が意識できるようになっていくと、その集団はエネルギーを高めていく。

また社会的儀礼による集団へのエネルギー注入はバッテリーによる充電のようなもので、時間が経過するとそのエネルギーは減衰していくので、定期的に儀礼を行うことが大事であるようだ。

スローガンを唱和するとか、円陣を組んで士気を高めるとかそういうのも儀礼なのだろう。集団はそういった儀礼的行為を通して個々人の道徳感情を調整していく。儀礼を補助するものとして象徴的な物体が使われることもあるようだ。掲示物とかトーテムとかいろいろ。歌とかも当てはまりそう。

最適化か満足化か

人が人をコントロールするのにどんな仕組みを使うのかについても社会学では語られているみたい。金銭的・強制力・連帯の3つがそれで、全てに限界が存在するが、金銭と強制は特にすぐ限界がくる。ここではビジネスの話や組織論についても書かれてたけど、例えば給料払えば何でもやるわけでもないし、ムチで打たれても能率は上がらないし、みたいな話。

じゃあってんで、連帯は?という話だが連帯と儀礼は結構繋がってるらしく。仕事したい!と思わせるには一定の責任を与える儀礼を通して権限を移譲するってことになるんだけど、権限ってあげすぎるとなくなるし、儀礼はやるのに結構労力も時間もかかるっていう問題があるとか。

そんな中でどうするのが能率の最適化につながるか!?ってのに対して組織論は「複雑になり過ぎたら、最適解なんてないよー」という身もふたもない結論を出しているとか。ただ、実感と恐ろしく合致してるので…w

で、ノーベル賞とったハーバード・サイモンという人は複雑な組織を動かす唯一の方法は最適化を諦めることだということを「最大化するのではなく、満足化するのである」と語っているらしい。これは満足水準(赤点みたいな、これ以下は認められーんってやつ)を決めて、それ下回っちゃったらトラブルシューティングするという戦略。どうやら一定以上複雑な状況下ではこれが最も効果的らしいと。これもなんというか実感に近くて逆に残念というか怖いというか。。。

問題行動は社会組織の組織化不全によるもの

とても納得感が強く、また難しいなあと思う一文があったので引用しておきます

社会組織が、人びとをより大きな集団の成員へと統合していくメカニズムをうまくつくりだせないと、道徳感情は出現しない。かわりにそこに見られるのは、相互不信の状況であり、誰もが自分のことしか考えない状況であるが、それは、デュルケムが論じたように、各個人がまったく自分の利己心だけに基づいて行動することの結果として生じるものなのであろう。不正行為をするかそれともルールを守るかという選択に置いて、合理的個人は、純粋に一個人として行為するなら、常に不正行為のほうを選ぶだろう、ということを思いだそう。これこそ、社会との結びつきを奪われた人びとが置かれている状況なのである。

社会学、とても深くかつ活用ができそうな気がします。いろいろ勉強していこうかなと

無意識の魔物

本には、犯罪は犯罪者という少数派の存在によって多数派の結束を高めるための儀礼で、一定以上あるのが正常と書いてありました

そんなこと普段考えることもないなーと

これ、要は境界は人が無意識的に、だが意図的に作るという意味でとても怖い。これはいじめというものが社会において必然であるという悲しい現実にもつながる

人は無意識の魔物に簡単につけこまれる、それは「無知の知」と対をなすもので、知ってるつもり、分かってるつもり、当然だ、常識だ、あいつら分かってない、勉強不足だ、みたいな言葉はもしかしたら無意識の魔物によるものかもしれない

とか変な文章ですがこれで締めようかなと思います

おわり